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アラフィフ女の脱皮物語~人生後半、「よい私」から「私がよい」へ〜 第1回 私たち、これから蝶になる?

最上川えつこ / 2026/10/19

誰かの期待に応えてきた。何かの責任に動かされてきた。自分のことは、つい後回しにしてきた。気づけば五十代。「これからも、このままでいい?」と思うのは、わがままだろうか。ベランダのアゲハを育てながら、私はふと思った。「もしかして私たち、これから蝶になるのでは?」今の窮屈さは、変化のしるしかもしれない。「よい人であろうとする私」から「私がよいを選ぶ」へ。これからの暮らしを、自分の気持ちで選び直す連載を始めます。

2026年10月。 秋のベランダで、私はアゲハの幼虫の食糧事情に頭を悩ませていた。 我が家には、二年越しで育ててきた小さな山椒の苗木がある。十月に入ったころ、その葉に小さな幼虫が住み着いているのを見つけた。 しかもなんと、四匹も! はじめはかわいかった。 小さいうちは食べる量も知れている。ところが、脱皮を繰り返し、鮮やかな緑色の終齢幼虫になると、事情が変わった。 まさに「はらぺこあおむし」である。 よく食べる。遠慮なく食べる。私が長い時間をかけて育ててきた山椒は、あっという間に丸裸寸前になった。 これでは山椒がもたない。 慌てて週末に山へ葉を探しに行ったりしてどうにかこうにか工面した。それでも、四匹の食欲には追いつかない。 山椒を育てていたはずが、いつの間にかアゲハを育てている。しかも、その食費は山椒持ちだ。 食べ盛りの子どもを前に、冷蔵庫が空っぽになったような気分である。ただし、相手は幼虫。「とりあえず納豆ごはんで」というわけにはいかない。 困り果てた私は、急にあるご近所さんを思い出した。

すっかりご無沙汰だったおつきあいの復活

困り果てた私は、ふとあるご近所さんを思い出した。 同じ区内に住む、知り合いのご夫妻。東京23区内に井戸のある畑を持っている、いわゆる地主さんだ。 ご夫妻は七十代半ば。昔から友人家族や我が家がお世話になってきた。子どもたちはバーベキューやタケノコ掘りを楽しませてもらい、お正月にはお年玉をいただいたこともある。 一方、生け花の先生をしていた小母様が地域のイベントで壇上を飾る際には、私たちが花を活けるお手伝いをした。 都内に暮らしながら、そんな「おたがいさま」のつきあいを続けながら子どもたちは成長した。 ところが、ここ数年は奥様の体調がすぐれず、外へ出る機会が減った。以前のように顔を合わせることも、少なくなっていた。 そのご縁を、思いがけず結び直したのが山椒の葉だった。 お庭から葉を分けていただき、幼虫の食卓はどうにか整った。そして、久しぶりに小父様にお会いして「小母様が料理をするのも難しい」と知り、今度は私が、我が家の夕飯のおかずを分けて持っていくようになった。 庭の大きな木になった柿をいただいたときには、皮をむいて届けた。 山椒の葉とともに、夕飯のおかずが家と家を行ったり来たりする。 その間、幼虫たちは、そんな事情など知る由もなく食べ続けた。あまりに忙しい私は「いったい何をやっているんだろう?」と思うこともあったが、小さな四匹に人間同士のつきあいを取り持ってもらうとは思わなかった。

「ご迷惑をおかけしないように」の反転

私たちは、この言葉をずいぶん大切にしてきた。私も、ベランダの幼虫くらい自分で何とかしなくては、と思っていた。 でも、葉がない。丸裸になった山椒は急には茂らない。 困っていることを伝えて、葉をいただいた。すると、しばらく遠のいていたお宅を訪ねるきっかけができた。 何でも自分で済ませていたら、小母様の近況も知らないままだったかもしれない。 人に頼ると、つながりが生まれることもあるのだな、と思った。

爪の先ほどの小さな幼虫に感じる愛着

努力と地域のご縁が功を奏して、幼虫四匹のうち、今は二匹がさなぎになった。 あんなにせっせと食べていたのに、実に静かなものだ。食事係としては、ひとまず二匹分、肩の荷が下りた。残りの二匹も、その準備を始めている。 しかし、私の安堵をよそに、さなぎの中では大変なことが起きているらしい。 よく「中身がドロドロになる」と聞くけれど、正確には、幼虫の体の一部が分解され、蝶の体へと組み替えられていくのだという。 外から見ると、何もしていないようなのに、中では自分の体をつくり直している。 ずいぶん思いきったことをするものだ。 昨日までの自分を少し改良する、という程度では済まない。葉を食べて歩いていた生き物が、羽を持ち、空を飛ぶようになるのだから。

もしかして、現役の階段を上る足をふと止めた私たちも…

そこで、ふと思った。 私たちも、これから蝶になるのではないか。 五十代になると、それまで当たり前だったことが、少しずつ当たり前ではなくなってくる。 以前は平気だった無理がきかない。続けていくつもりだった働き方に疑問が湧く。自分が引き受けるものだと思っていた役割を、そろそろ下ろしたくなる。周囲から「そろそろゴール」「そろそろ引退」の声が聞こえてくるし、身体の衰えも実感する。事実、私自身は子育てを卒業した。 ところが、いざ下ろそうとすると、落ち着かない。 私がやらなくて、大丈夫だろうか。 今さら、そんなことをしていいのだろうか。 わがままだと思われないだろうか。 誰に聞かれたわけでもないのに、頭の中で説明会が始まる。 「よい人である私」でいるために、ずいぶんたくさんのことを覚えてきたのだと思う。 誰かのために生きること。気を配ること。期待に応えること。途中で投げ出さないこと。自分のことは後まわしにすること。 そのおかげで築くことができたものもある。だから、これまでの自分を否定したいわけではない。 ただ、そのとき必要だったものを、これからも全部、持っていく必要はあるのだろうか。 以前なら疑わなかったことに、違和感を感じたのなら、立ち止まる。 好きだったはずのことを、今も好きかな?と確かめる。 自分の役目だと思っていたことを、誰かに渡してみる。 そんなふうに、私たちの中でも何かが組み替わり始めているのかもしれない。 これまでの形がしっくりこなくなったのに、次の形はまだ見えない。その落ち着かなさを、「もう若くないから」の一言で片づけるのは、少々もったいない。 もしかすると、変身の途中なのかもしれないのに。 しかも、こちらは人間だ。どんな羽で、どこへ飛んでいくかは、ゆっくり自分のペースで考えていい。 遠くへ行ってみたいのか。近所の花をゆっくり巡りたいのか。それとも、しばらく羽を休めたいのか。 人から見て立派な行き先でなくても、自分が行きたい場所なら、それでいい。 そして、自由になることは、何でも一人でできるようになることとも、少し違うのだろう。 山椒の葉がなくなったら、分けてもらう。夕飯のおかずがあったら、少し届ける。今は難しいことを、お互いに補いながら暮らしていく。 誰かに頼れると分かっただけでも、下ろせる荷物はある。 ベランダの二匹は、今日はひとしきり動き回り、夕方から急に静かにしている。 無事に蝶になるかは分からない。でも、山あり谷あり…ここまでたどり着いたのだ。あっぱれ!そして、無事に脱皮して羽ばたいて! さて、私の中では、何が起きているのだろう。 「よい人でいようとする私」が身につけたものを一つずつ確かめながら、これからは「私がよい」と思える生き方を探してみたい。 まずは、四匹の食糧事情に右往左往して、家族の夕飯の支度を忘れる私から。 蝶になるには、まだ少しかかりそうだ。 でも、どうなるか楽しみでたまらない。

アゲハチョウーサナギから羽化した後の命は短いー
羽があるなら自由に飛んでいってもいいじゃない?